和気寺跡(岡山県和気町衣笠稲坪) |
昭和3年(1927)石英粗面岩の石塔が、塔田の西端にあった土盛り塚から出土した。其の塚は昔からあって足を踏み入れると祟ると言われていた。石塔は塚の土取り作業中に奈良時代の瓦とともに出たが、石塔面に「天王の地に功田二十町を受封された正三位輔治能の主塔」の字があった。輔治能は清麻呂のことであるが、清麻呂死去の年月日、死後追贈の位階「正三位」が入っているところから、彼の死没後、里人によって造られ塚の中に納められたと考えられる。
近くに割地(わけじ)の字名があって和気寺に通ずるし(古老)、そこが稲(維那)坪村であり、また出土の瓦の鑑定から、郡司和気氏の建てた氏寺「和気寺」の跡であろうと推定された。むかし里人たちは清麻呂の頌徳碑を氏寺和気寺の境内に造り、それが後世壊れて消えてしまうことを心配して、塚の中に埋納したのではないか。
世の中が末法時代に入ると、お経の消滅を心配して経塚を盛んに造ったが、それと同じ気持ちから清麻呂の徳を長く残そうとして、頌徳碑を土中にうめ永久保存を図ったのではなかったか。それにしても清麻呂の故郷の人々の彼に寄せた尊敬心には驚かされる。
(仙田実著 和気清麻呂 日本文教出版 より)